SOLD OUT
江戸・明治時代に煎茶道具として、
日本に多く輸出されてオマージュされてきた福建漳州窯の涼炉。
こちらは、その原産地である漳州府南靖馬坪(現在の竜海程渓鎮あたり)の白土で、現地の後人である許英森に再現されたもの。
江戸以来日本に輸入されたものは、長身で畳の上で使いやすい高さのものが多かったが、テーブルの上でも使いやすい高さのものをメインに選んでいる。
漳州窯の涼炉の多くは、
上部に三つの弧形の切り込みによる、三つの峰のような突起が造形の特徴(福州窯のものもこのこの形のものが存在する)。
この特徴から、日本で「三峰炉」と呼ばれ、
現地で銀の元宝(げんぽう、古代銀の通貨)の形に似るので、「銀炉」とも呼ばれる。
また、唯一記録された名工は、康熙年間(1662-1722年)の「許大壯」という人で、紫砂壺の「孟臣」と同じ、彼の名前が閩南でブランド化されて、「大壯炉」としてのちの数百年に伝承された。
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<史料>
18世紀に編纂された『漳州府志』
「茶爐、出馬坪、以白土為之、其色如施粉、風口刻花、工致異常、前此未有也」
(茶炉なら馬坪産。白土を以て作られる。その色は粉を施したようであり、風口に花を刻し、作りは極めて精巧で、これ以前にはこのようなものはなかった。)
18世紀に編纂された『竜渓県志』に
「…近則移嗜武夷茶。以五月至、至則鬥茶、必以大彬之罐、必以若深之杯、必以大壯之炉…」
(...近ごろでは、人々の嗜好は武夷茶に移っている。(新茶が)五月頃に到着すると、さっそく闘茶が行われる。(その際)必ず(時)大彬の茶罐<急須・茶壺>を用い、必ず若深の茶杯を用い、必ず<許>大壮の茶炉を用いるのである。)
(整理中)